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岡山鉄城は岡山県の鉄道と城跡を紹介するサイトです。

ぼっけぇ岡山プロジェクト

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岡山市の城跡The ruins of a castle in Okayama City

岡山市内の城跡について所在地名、城名のカナ順で記載しています。
 順次各城の詳細ページを作成予定です。

岡山市は人口約72万人の政令指定都市となっていて、岡山城、後楽園などを有しています。備前岡山は室町後期に宇喜多氏が勢力を伸ばし、関ヶ原合戦後に改易となってからは小早川氏(秀秋)を経て、「池田の殿様」こと池田氏が廃藩まで統治することになります。
岡山市の南半分はかつては海でしたが、中世以降埋め立て、干拓が進み、現在の姿となっています。


<北区>

八幡山陣 岡山市北区大崎・和井元
標高42mの丘陵上。現在では主郭跡には八幡神社を据えており、参道で登ることができる。
主郭の東にある平坦面は、後年墓地として改変されている可能性がある。土塁や堀切等は確認できない。
「高松城の水攻め」で宇喜多忠家が在陣。
加茂城 岡山市北区加茂
「高松城の水攻め」の際の毛利方の城で「備中境目七城」の一城。城主に桂広繁を迎えて秀吉方と交戦を行った。
現在は農地化、宅地化が進み、遺構は判らなくなってしまったが、「二の丸」という字名から田の中に残る小丘が加茂城二の丸遺構と推定されている。
小山城 岡山市北区小山
備中高松城を見下ろす尾根上に築城されており、尾根の先端部は東西に割れ各々四から五の段が設けられている。
西尾根側の最高所の主郭には一部土塁が残り、主郭南下の段には現在は木野山神社が建てられている。ただ、木野山神社は荒廃しており、拝殿は既に倒壊寸前だった。
冠山城 岡山市北区下足守
標高40mの小丘陵全域に築かれている。高い切岸で守られた主郭の周囲に曲輪を配し、北側に竪堀、南西側に三条の竪堀群がある。「備中境目七城」の一城。
「高松城の水攻め」の際には林三郎左衛門尉重真を守将とし、早島城主の竹井将監らを援将に迎えて懸命に防戦したが落城。
網浜城 岡山市北区船頭町
現在の妙勝寺(日蓮宗)周辺が網浜城(網濱城)の推定地となっており、阿比六郎が在城と伝わる。
阿比六郎は多田頼貞の家臣であろうか。
周辺は墓地、宅地化しており、遺構は見当たらない。
別名網浜ノ熊城。
備中高松城 岡山市北区高松
「高松城の水攻め」で著名な沼城。三村氏家臣の備中守護代石川氏が築城と伝わる。その後、その臣の備中清水氏が入り、三村氏が滅した後は毛利氏の配下として在城。
現在は高松城公園として整備されており、蓮池などが散策できるが、往時を感じさせるものは殆ど無い。
高柳城 岡山市北区高柳東町
宅地化のため滅失。遺構なし。
中島左馬頭の居館跡か。
下風城 岡山市北区建部町川口
旭川沿いにある山頂(標高236m)に築かれており、土塁に囲まれた主郭や堀切、竪堀などが良好に遺存する。
城域の手前まで車道があるため車で登ることが出来、そこから若干雑木を潜れば、容易に主郭まで到達可能。
蛙が鼻築堤
(備中高松城水攻め築堤跡)
岡山市北区立田
「高松城の水攻め」時に秀吉方が築いた堤の一部が残っている。堤防は高松城の南側を塞ぐ形で築かれ、西側にある足守川の水を流し込む形になっていたと考えられる。
高松城は水攻めのため孤立し、講和条件により、城主清水宗治は兄の月清(宗知)、弟(宗忠)らと切腹し落城した。
御崎山陣 岡山市北区立田
現在では山頂部に御崎神社の本殿が設けられている標高26mの小丘陵が、「高松城の水攻め」にて秀吉方で用いられた多数の陣のひとつ。
この陣山は東西140mで長細い形となっており、主郭の北側は深い切岸を設けて遮断している。土塁の類は見当たらない。
烏山城 岡山市北区津島
烏山の頂上部に築かれているが、主郭部に施設が設置されており、改変が甚だしい。主郭周辺にいくつかの平坦面を残す。
半田山城と共に岡山大学の管理地となっており、立入禁止となっている。当時、大学関係者の方と知り合うことができ、短時間ではあったが訪れることができた。
半田山城 岡山市北区津島
烏山城と共に岡山大学の管理地となっており、関係者外立入禁止となっている。
こちらは城跡が良好に残っており、複数の曲輪、竪堀、切岸などが確認できる。
烏山城と共に「狼の城」と呼ばれた城か。
城主は林玄蕃と伝わる。
小丸山城 岡山市北区辛川市場
標高約10mの独立小丘陵上。
南北約180m、東西約90mで、主郭部に「艮御崎神社」が建てられている。小丸山古墳とも考えられていた。
帯曲輪の北端には画像の小規模な土塁が残っているが、城の南側は小丸山緑地として改変を受けている。
蜂谷城(蜂矢城) 岡山市北区富原・楢津
蜂谷氏の居城と伝わる。
推定地の雑木林に平坦面が残り、その背後には長細い平坦面と、その下に複数段の腰曲輪状の段が残る。
ただ、その形状などから城郭関連遺構ではなく、後年の農地の可能性もある。
撫川城 岡山市北区撫川
現在は「撫川城址公園」となり、一部の土塁、野面積みの石垣、周囲に堀が残る。
元々は三村氏により備前進出のための出城として築かれたと考えられる。その後は「高松城の水攻め」の「備中境目七城」となり、更にその後は戸川氏の陣屋となる。
辛川城 岡山市北区西辛川
西辛川の集落の北、山陽自動車道北側の標高約90mの山上に築城されている単郭山城。別名は西辛川城。
土塁、堀切、土橋、虎口などが遺存する。
庭瀬城 岡山市北区庭瀬
現在は城跡は弁財天、清山神社、ちびっこ広場などになっている。庭瀬藩陣屋跡。
かつては西側に近接する撫川城と一体で運用されていたと考えられている。
北側に専用駐車場があり、車で訪れられるが、周囲の集落は道路が非常に狭く入り組んでいるため注意。
野殿城 岡山市北区野殿東町
篠ケ瀬川の東、現在、セブン-イレブン岡山野殿東町店が一角にある周辺地が城跡想定地。
富山城の居館となるものか。宇喜多忠家ら宇喜多氏一門が在城と伝わる。
宅地化のため滅失。遺構なし。
舟山城 岡山市北区原
旭川西岸の標高約50mの小丘陵上。山頂の主郭に腰曲輪、帯曲輪の構造。主郭の西側と北側に土塁。北側背面に堀切が残る。
主郭には神社が設けられ、南側の腰曲輪、帯曲輪などは墓地化してしまっている。
須々木豊前守が築城したと伝わる。
岡山城 岡山市北区丸の内
旭川沿い丘陵上に築城された近代城郭。多数の堀を巡らせ多数の櫓や多門櫓、櫓門などを有していた。
天守閣は黒塗りの下見板を施してあったため「烏城」と呼ばれていた。
天守閣は旧国宝となっていたが、惜しくも太平洋戦争の末期に被災して失われた。
金川城 岡山市北区御津下田
別名玉松城。連郭式山城で備前の名族松田氏歴代の本城。
松田氏は備前で大きな勢力を持ったが、宇喜多直家の襲撃を受けて滅んだ。
城域は広く臥龍山山頂の主郭から北、南西、南東へと、多数の曲輪が残っている。土塁、石積、堀切、竪堀、井戸など遺存。
妙見山城 岡山市北区三野本町
旭川西岸の標高約50mの小丘陵上。現在は「三野公園」として整備されており、その際に大幅な改変を受けたものと考えられる。
当城北の舟山城と同じく主郭と腰曲輪、帯曲輪の組み合わせになるが、改変されていて形状がはっきりしない。
生石城 岡山市北区門前
北東から伸びる丘陵の先端部、標高約30mの山頂周辺に築かれている生石氏の城。主郭には現在は生石神社が建つ。
主郭の東下に二つの狭い段があり、そこから更に東に降ったところに南側に堀切、北側に土塁を設けた小規模な曲輪が残る。ただ、墓地や山道等による改変も大きい。
辻川城 岡山市北区矢坂西町
富山城の北西、篠ケ瀬川の南岸の平地。GoogleMapで見ると半円のような区割りになっている土地。
画像の右側にあたるが、訪れた際には多量の土砂が搬入され埋め立てられており、往時を窺うことはできない。
辻将監の城館跡と伝わる。
富山城 岡山市北区矢坂本町/矢坂東町
標高約130mの矢坂山山頂部周辺に築城されている連郭式山城。築城は富山氏であったが、後に松田氏が攻め落とし、松田氏が滅んだ後は宇喜多氏の城となった。
矢坂山は各所で採石が行われており、遠方からでも直ぐに判別できる。曲輪の直前まで破壊が進んでいる。


<中区>

龍ノ口城 岡山市中区祇園/四御神
龍ノ口山北側の峰に築かれた連郭式山城。
主郭部には現在は龍ノ口八幡宮が設けられている。
一部に土塁、竪堀、堀切などが残る。
所修理亮元常の居城であったが、後に宇喜多氏の謀計により落城している。
比丘尼山城 岡山市中区国富
国富氏の居城で別名国富城、比丘尼城。
操山西側を降った住宅地の中の低丘陵地が城跡と考えられているが、個人宅地となっており立ち入り出来ない。
※令和4年8月時点で比丘尼山城跡の大半の滅失が判明。写真にある丘陵地が工事で削り取られ失われている。
明禅寺城 岡山市中区沢田
操山北側の尾根沿いの丘陵上に、備前の雄宇喜多氏と備中の雄三村氏による明禅寺合戦の戦場となったといわれる城跡があり、堀切、土塁、石切り場なども残っている。
三村氏は合戦の敗北後凋落の一途となる。
城跡への登山道あり。駐車場所もある。
清水城 岡山市中区清水
小字「城の内」に城館が築かれていたと考えられる。
難波将監の居城と伝わる難波城と同意か。

宅地化のため滅失。遺構なし。
中島城 岡山市中区中島
中島大炊介(元行)の城館跡と云われる。城跡は周囲の屋敷などの集落跡(中島遺跡)の西側に面している。
道路設置に伴って、発掘調査が行われた。
西河原城 岡山市中区西河原
近藤因幡守の城館跡と伝わるが、宅地化のため滅失。遺構なし。
JR西河原・就実駅の北側、おかやま西川原プラザの周辺が字「城前」で、ここから北側の県道96号線の南側周辺が字「城後」となっているため、この一帯に城館があったものと考えられる。
平井城 岡山市中区平井
網浜茶臼山古墳の南側(約100m)周辺が浦上氏の臣平井氏の城館があったと伝わる想定地だが、一帯は墓地。想定地周辺に若干の土地(竹林、雑木林)を残すが、遺構と考えられる箇所は見当たらない。
なお、古墳の南側には佐々木盛綱が馬で飛び越えたと伝わる「馬の足型岩」がある。
円山城 岡山市中区円山
円山の盛徳院の周囲および背後の丘陵地が寺尾十左衛門の城館跡と伝わる。
丘陵上は削平されているが、墓地となっており後世に大規模な改変が行われていると考えられる。遺構と考えられる箇所は見当たらない。


<東区>

大日幡山城 岡山市東区内ヶ原
大日幡山標高156.2mの山頂部に主郭、北と東に出丸を備える。(東の出丸は浄水場工事に伴い滅失。)

城主としては、室町期備中南部へ進出した山名俊豊らの名があがる。
茶臼山城 岡山市東区浦間
全長138mの国指定史跡の浦間茶臼山古墳(前方後円墳)を利用した城と考えられている。
古墳上に土塁など城郭施設を加えるなど改変した形跡は見当たらない。
乙子城 岡山市東区乙子
宇喜多氏の初期の主要城郭。
両児城のように二つの峰を持つ。西側の峰の北端が主郭。南側の峰の頂には乙子神社が造営されている。
主郭部にはベンチや案内板も設けられ、公園として整備された模様だが、現在ではベンチは朽ちて座る部分が失われていた。
射越城 岡山市東区西大寺射越
標高約6mの非常に低い丘が射越城跡と伝わるが、全域が墓地化しており、遺構となるものは見当たらない。

一見して田んぼの海に浮かぶ小型の駆逐艦のようにも見えた。
金山城 岡山市東区西大寺上一丁目
標高約20mの丘陵上。現在は、岡山学芸館高校や金山八幡宮の敷地となっている。大規模な工事を受けて大きく土地は改変されており、遺構は残っていない。
なお、金山八幡宮は令和3年に社殿を全面改修している。
宇喜多忠家が居城としたとのこと。
浜城 岡山市東区西大寺浜
宅地化のため滅失。遺構なし。

近隣に宇喜多宗因の小社があるとのことだが、見つけられなかった。
新庄山城 岡山市東区竹原
新庄山山頂(標高約120m)の主郭から南側に腰曲輪、西側に帯曲輪を並べる連郭式山城。
麓の東側には砂川が流れ、北東の稲荷神社横から山頂の主郭にある石鉄神社まで参道が伸びている。
福岡城 岡山市東区寺山
赤松氏・浦上氏が守る福岡城を松田氏・山名氏の連合軍が攻撃するという「福岡合戦」の舞台となった城。
ただ、福岡城は吉井川の幾多の水害により度々流出し、その後の大洪水で廃城となっている。岡山市側の小丘とは別に吉井川対岸の瀬戸内市側にも福岡城遺構がある。
正木城 岡山市東区中川町
百間川沿いの標高56mの征木山山頂にある連郭式山城。征木氏の居城で後に宇喜多氏らにより陥落と伝わる。
城の北側は宅地化で失われている。
山腹には征木稲荷大明神。麓の百間川の河川敷には、落城時に城主の妻子が身を投げたと伝わる「笄の井戸」が残っている。
亀山城(沼城) 岡山市東区沼
集落の中に整備された丘陵地が残る。
西側の最高所に弁財天神社を据える曲輪を本丸とし、東に降ったところに二の丸、その北に三の丸を構える。
また、ここから西に離れた場所に西の丸の丘陵がある。
宇喜多氏の主要な城の一つ。
藤井城 岡山市東区藤井
標高約50mの低丘陵上にある藤井古墳を中心とした輪郭式山城で、別名おん山城。藤井氏の居城と伝わる。
丘陵上の想定地周辺にはいくつかの段が確認できるが、おそらく古墳によるものと思われる。雑草が多く茂っていて全容を見い出し難い。
王子山城 岡山市東区百枝月
河本武政の居城と伝わる。
新庄山城下の公園の一角に建てられていた案内図に記載があったため訪れたが、小丘陵上に平坦面は王子ノ鼻古墳群か。

※改めて訪れたところ、新たな大型の送電鉄塔の建設が進められている模様。


<南区>

洲浜城 岡山市南区妹尾
現在は住宅地の中の丘陵上に妹尾太郎兼康の居城で洲浜城(須浜城、妹尾城)があったと伝わる。
「妹尾を語る会」の方々が説明板を建てられているが、実際の場所は不明と考えられる。
現状はご覧のとおり、雑草が茂った状態。
戸川陣屋 岡山市南区妹尾
戸川氏の陣屋跡で井戸のみ残る。妹尾陣屋とも。
浜野構 岡山市南区浜野一丁目
網浜や浜野を拠点とした多田頼貞の居館跡とも伝わる。
頼貞の自害後、これを弔うために居館跡に現在の松寿寺(日蓮宗)が建てられたとのこと。遺構なし。
寺には樹齢約600年の槐の老木があり、鬼子母神えんじゅと呼ばれている。

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管理人:久氏

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