百間川が大きく右折した先に柾木山とよばれる標高約50mの丘陵地があり、この山頂から北へ尾根沿いに降る箇所に征木城跡が設けられています。
南端の主郭から北へ複数の曲輪を組み合わせた連郭式山城ですが、北半は南陽台団地の建設時に削り取られて失われているため、今では当時の城の全容は判りません。
築城者は征木大膳で、天正年間に築かれたと伝わりますが、正確なところは不明です。
城跡へは山腹の柾木神社(柾木稲荷大明神)への参拝道で登っていくことができますし、北側の団地(個人宅横)側から入ると直接北側の曲輪へ入ることができます。
(何れも車の駐車場所はありません。)
柾木神社に掲げられている由緒の説明板には城の歴史が書かれているのですが、失礼ながら一見してツッコミどころ満載と思えました。
・征木城は天正17年(1589年)征木大膳正康が築城・・・いや、いや、それは後年すぎるのでは?室町中期までではないか。
城は石垣や畝状竪堀群なども無い典型的な室町期の古風な姿であり、戦国後期の城郭の要素は持っていないと考えられます。
・鉄壁の城と言われ岡山城の東の砦として役目を果たしていた・・・城の遺構内容、山姿、高度などから防御はそれ程高くないと考えられます。
・天正年間の後年に姫路城主本多美濃守5千と宇喜多直家2千の軍勢に取り囲まれて落城・・・宇喜多直家は征木城築城以前の天正9年(1581年)に既に他界しているし、本多美濃守(忠政)が姫路城主になったのは元和3年(1617年)のはずです。
本多美濃守と宇喜多直家のくだりは誤っているとして、宇喜多氏に属して征木城を築いた征木大膳だったが、関ヶ原合戦において徳川方に付いて宇喜多氏に反した。そのため、宇喜多氏(秀家)の軍勢に攻められて落城した、といったところでしょうか。
・城主の内室玉尾の方は姫君初瀬を抱いて馬で征木山を斜めに駆け下り城内の「笄の井戸」に身を投じた・・・「笄の井戸」は城外にあります。征木山は敵兵の大軍に取り囲まれていたのでは?
などなど、くだらないことを考えてしまいましたが、「いや、考えてはならんのだ。」と思い直して城攻めに復帰しました(苦笑)。
まあ、伝承というのはいい加減なことが多く、昔の人の酒の席の噂話に尾ひれが付き、更に後世の人により書き変わった場合もあるでしょうから。
参道から登った場合、征木神社前を抜けた後、左に折れて道なりにしばらく登っていけば細長い平坦面に出ます。
ここは非常に狭く、犬走り?ではないかと思います。
そこから直ぐ上が、城の最高所で一番広い面積を有する主郭(呼称:一の壇)となっています。
主郭上は傾斜面も少なく平坦に整地されており、木々も適度にある状態のため、散策しやすくなっています。
平坦地のほぼ中心の位置に征木山の三角点も設置されています。ただ、曲輪の端は木々が茂っていて、残念ながら主郭からの眺望は良くありません。
主郭の南東端部分は部分的に少し下がった形になっているのですが、ここに加工された石積み風の列石のようなものがあります。
もしかすると、後年になって山上に神社関係の祠などが設けられ、その際に削平を受けたのかもしれません。
主郭の北側から段差を降ると二の壇となり、二番目に広い曲輪です。ここから北側へ更に2つほど小曲輪が並びますが、その先は断ち切られており団地になっています。
犬走り状の細長い削平地は、主郭下から北側の曲輪群を含む周囲に配されています。一部は幅が広くなっており帯曲輪状です。
このように複数の曲輪はあるものの、土塁や堀切、竪堀のようなものは見当たりませんでした。
(二の壇の一部に曲輪の端が若干隆起しているように見える箇所もありましたが、土塁跡とは云えないものでした。)
ただ、山の形状上、本来、城の北側は緩い傾斜で現在の団地部分と接していたと思われ、北端の曲輪周辺は深い横堀などを配していないと防御が薄かったのではないかとも推測しますが、北側が失われている現在では確認しようがありません。
(Google mapで画像を確認すると、城の東側はまだ北西に続いているようにも見えますが、城は北に伸びている形で団地手前で終わっています。)
<西側から望む正木城遠景> 城山の北側(画像左端)が断たれて住宅地「南陽台団地」になっているのが判る。 |
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<山腹の征木神社> 「柾木稲荷大明神」 周囲はかなり草木が茂っているが、神社は定期的に清掃されている模様。 |
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<征木神社の御神石> 城跡への途次に鎮座する。 ここからなら見晴らしが良さそうだ、などと不埒な考えをおこして、登ったりしてはいけない。 |
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<途次の岩> 縦形の岩。こちらは御神石ではないようだ。右側の岩は口を開いた魚の顔のようだ。 |
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<主郭下の犬走り> 曲輪の周囲に細い通路上の犬走りが巡っている。 一部の箇所は幅が広くなっていて、帯曲輪状だ。 |
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<主郭(一の壇)> 中央から若干南の位置から曲輪の北側方向。征木山の三角点が見える。 主郭は南北に長い曲輪。 大きさも測ったはずだが・・・、メモを無くしているようだ(汗)。 |
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<主郭南東端からの眺望> 木々が茂ってよく見えないが、城下の百間川の流れが見える。 |
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<主郭南東部分の石烈> 後世、ここに何らかの施設が設置された可能性を感じさせる。 |
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<主郭の南側周辺> ところどころに四角い石が埋もれている。石列の関係か。 後世の削平率は高そうだ。 |
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<主郭北側から南方向> 曲輪北側にもやはり石列のようなものがある。 |
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<二の壇から一の壇を望む> 主郭北側から若干の段差の切岸を降ったところにも広めの曲輪(呼称:二の壇)がある。 |
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<二の壇> 一の壇と比べると木々の茂りが多く、暗い感じ。 こちらも綺麗に整地されており、南北に長い曲輪。 |
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<二の壇にある若干土塁状のもの> 木々の根本周辺に土の盛り上がりがあるが、非常に短く部分的で、土塁かと問われると微妙。 |
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<二の壇の北側から南方向> 木々が茂って暗いのが判るが、中央部に木々が少ないため通りやすい。 |
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<三の壇> 二の壇と三の壇の境の切岸は曖昧。 益々木々が茂って暗い。 奥行きも6m〜7m程度で狭い。 この東側にも狭い複数の段があり、その先から団地とつながっている。 この辺りは後世に改変されているものか。 |
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<四の壇> 三の壇との切岸はやはり僅かで曖昧。 写真のような細くてくねくねした気持ち悪い雑木が多く茂っていて通りにくい。 |
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<四の壇の北端> この先は団地があり、削られているため切岸のようになっている。 この辺りは傾斜がかかっている。 東側から団地側に出ることができる。 |
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<河川敷の「笄の井戸」> 城下東の道路脇から降って行ける。 敵兵に包囲されていたはずだが、どうやって突破したのか。 そんな無謀なことをして捕まるリスクを考えたら、城中で刺し違えるなどが妥当な選択のように思われるが。 |
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<笄の井戸> 妻子が身を投げたとのことだが、あまり大きい井戸ではない。 因みに「笄の井戸」のいわれは、後に弔った際に笄が浮かび上がってきたからとのこと。 |
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<東側から望む征木城遠景> 百間川を渡った対岸から。山は北側へなだらかに降っているのが判る。 |
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