嘉吉年間に美作守護職となった山名教清の一門である山名忠重が城主として任じられていますが、築城年代や築城者などは明確ではありません。
その後、室町時代〜戦国時代には尼子氏や浦上氏、毛利氏などが入り乱れて奪い合う要所となっていたようです。
天正年間には毛利氏の美作における拠点として備後利鎌山城主の福田盛雅が城主として派遣され、天正七〜八年に備前の宇喜多勢と攻防戦を展開。
城将として派遣された湯原春綱、小川元政らの奮戦と宇喜多直家の不調もあり、宇喜多勢は撃退されました。
その後、天正十年に毛利氏と宇喜多氏の和議に伴い宇喜多氏の属城となっています。
岩尾寺の駐車場横に登山口があります。城跡は中世山城連絡協議会に加盟されている医王山城跡保存会の方々が熱心に整備されており、
登山口には説明板や登山用の杖も設置されています。(杖を使うとやはり楽ですね。)
以前、中国地方を襲った台風災害で酷い被害を受け、登山道も崩れてしまい、一時は登ることが出来なくなっていましたが、
その後、保存会の方々が黙々と整備を続けられて無事復旧しています。有り難い限りです。
登山道を暫く登ると堀切跡に至ります。浅いですが、山の斜面を生かした作りになっています。
登山口から約25分で主郭(本丸)に到着します。本丸は広くなにより虎口を挟んで両面に展開する石積みが目に留まります。
版築土塁の側面に大小の石を積んだものです。
保存会の方も言っておられましたが、県内でもこのようにしっかりした石積みが残る山城跡は少ないですね。
石積みの高さは1.5m前後というところです。ただ、城内側にだけ残ってるんですよね。城外側には見当らないようです。
この石積みがある先が虎口ということで、本来はこちらが出入り口でして、ここから峰続きの仙々城跡へと至れるようです。
以前は、災害の影響で二の曲輪、三の曲輪へ至れなくなっていましたが、こちらも保存会の方々の尽力により復旧しています。
三の丸の南側には、少し浅くなってしまっていますが、畝状竪堀群が確認できます。
但し、東側のものは確認出来るのですが、そこから西のものは災害時の倒木等が残っていて現在は見ることが出来ません。
又、見れてはいませんが、主郭北側にも、尾根を切って堀切と畝状竪堀群があるようです。
これは、今後の楽しみと云うことで、また訪れたい城です。
<主郭からの眺望(初夏)> 田に水が張られ、城跡にはこいのぼり。青草も繁る。清清しい気分。 |
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<主郭からの眺望(晩秋)> 流石に遠くまで見渡せる。要所の城だけはある。風が冷たい。 |
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<主郭の石積み虎口(登山道から左側)> 版築土塁は写真の左側に続いているが、途中から石積みは崩れている。 |
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<主郭の石積み虎口(登山道から右側)> 苔むす石積み。 |
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<二の曲輪> 尾根伝いに細長い形をしている。東面に土塁が残る。 |
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<三の曲輪> 西面に土塁がある。また曲輪の中央部に写真のように列石がある。 猿掛城でも同じように列石があったが、あちらは町境を示すものだった。 こちらは、何なのか。建物の痕跡なのか。。。 |
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<大堀切> 三の曲輪の南側にある尾根を切る堀切。 |
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<畝状竪堀> 長き時を風雨に晒され、上部は浅くなっている。 |
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