この城も築城者や主な城主、築城時期や戦歴など不明ですが、山頂の石碑の説明によると毛利方の城であったようで、天正九年に羽柴秀吉率いる織田軍の侵攻を受けて落城したとのことです。(元々は常山城の出城で常山落城後に毛利の支配下となっていた・・・といったところでしょうか。)
この山城を調べた際に国土地理院の地図を使用したのですが、麓の五十猛神社の西側から破線が山頂へと伸びており、この道を使うことを決定。
五十猛神社にお参りし、その周辺を散策したのですが、山上へ上がれるような登山道の入口は見当たりません。
仕方なく直登を試み、動物除けの柵に沿って東進。柵の入口のところから南西の五十猛神社の直上周辺に戻って破線の道を改めて探索・・・。
しかし、地図の辺りにはやはり登山道は見当たらないため、直登を決断してここから斜面をひたすら登りました。
斜面は続くものの登れない傾斜ではないので、しばらく雑木を掻き分けながら頑張ると雑木が切れた箇所に到達。
ふう、ちょっと休憩しようかと見渡すと、ここって登山道では・・・・なんだ、やっぱり登山道あるじゃないですか!
とりあえず、ここからは登山道を使って山上へ。
山上は木々が程良く伐採されていて見晴らしが良い状態でした。
前方の壇には石碑を前に椅子が並べられており、定期的に金毘羅宮への参拝が行われていることが判ります。
(皆さん参道で登られているということで、あの直登は何だったのか・・・。とほほ。)
主郭北端から北を眺めると眼前に常山(常山城跡)が望めます。展望を堪能。
常山城の出城であったのなら、備中兵乱後の毛利の児島侵攻時に奮戦したのでしょうか。
ただ、この日は雲が多め。晴れて明るく日が差したり、青空は見えるものの曇ったり・・・。少々残念。
金毘羅様の石碑の裏側(西側)に曲輪がありますが、こちらは激しい雑草の海です。
入って少しウロウロしてみたものの足元も見えず、こちらの散策は断念して南側の雑草が切れたところを迂回してその西側の壇へ。
斜面を降ると堀切が二条あり、それぞれの側面には土塁が築かれていました。ただ、堀切は土砂が流れて浅くなっています。
その西側の曲輪は雑木が多いですが、僅かな段差を挟んだ形で西へ続きます。
曲輪周辺を散策後、そこから南側に沿って戻りましたが、南側の切岸は場所によっては中々段差がありました。
帰りは登山道を降って麓まで、出たところは淡島神社。つまり淡島神社のところから登城するのが正解ということでした。
<滝城遠景> 広岡公園の北側に位置する。 |
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<五十猛神社> こちらにバイクを停めさせていただいて散策開始。登れる場所を探したが・・・。 |
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<滝城主郭周辺> 主郭部も僅かずつ段になっている。それぞれ曲輪なのだろうか。 金毘羅宮の集会用?の席が配置されている。 それにしても、本当にこの日は、日が明るく差したり陰ったり・・・。 |
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<金毘羅宮の石碑> 信者の方々の崇拝を受ける金毘羅様の石碑。 |
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<主郭> 主郭最高地点に建てられた金毘羅宮創建二百年記念の碑。 右手には常山城の姿が見える。 |
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<常山城を望む> 常山と山上周辺の鉄塔などが確認できる。 |
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<主郭の北東の曲輪> 主郭の北東側には広めの壇が設けられているのだが、背の高い雑草が生い茂っている。 足を踏み入れて散策してみたが、視界不良で何も判らないため断念。 南側から迂回し、その下の壇へと向かった。 |
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<堀切一条目> 雑草も多く画像では判りにくいが堀切である。 |
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<堀切の間の土塁> 堀切に沿うように低めの土塁が造られている。当時はもっと土塁は高く、堀切は深かったはずだが、これも長い年月を経た証か。 |
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<堀切二条目> 一条目と同様に浅い堀切。 |
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<北西腰曲輪> 北西端の腰曲輪の東側は斜面になっている。 雑木が多く通れない。 |
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<北西腰曲輪> 北西端の腰曲輪の中央部分。雑木は少ない。 良好な平坦面が続く。 |
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<北西腰曲輪> 西端部分も平坦な面が続いている。 |
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<淡島神社> 登山道を降ると淡島神社の直上に出た。 こちらから登るのが正解。 |
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