備中地頭職の秋葉重信が鎌倉時代の仁治元年に臥牛山山頂(大松山)に築城しました。その後、城主が移り変わりながら徐々に拡張し、最終的には、前山、小松山、天神の丸、大松山の四峰に跨る規模に拡張されています。
この城が戦史に大きく記されるのは、備中に勢力を張った三村氏の時代で、三村家親が成羽の鶴首城から移って拠点とし、その死後は、次子の元親が本城として整備して備前進出を図っています。
三村氏は安芸の毛利氏の配下として動いていましたが、毛利氏が三村氏の仇敵である宇喜多氏(家親を暗殺)と結んだため、これに離反しました。
その為、天正三年に毛利氏と宇喜多氏の連合軍による備中への大侵攻「備中兵乱」が行われ、守勢側も多数の出丸「砦二十一丸」を築いて城の守りを固めています。
しかし、三村方の諸城は大軍の前に相次いで落城。小早川隆景を大将とする毛利軍は、余勢を駆って備中松山城に押し寄せた為、家臣は続々と離反或いは戦死し、元親も一旦は落ち延びることを選択したものの負傷して断念。松連寺にて自害し、城は落城しました。
現在残っている天守閣や二重櫓などは、江戸時代(天和三年頃)に入って水谷氏の時に建てられたものと言われています。
その後、平成六年〜七年頃に本丸整備事業として五の平櫓及び六の平櫓など本丸周辺の建物が木材を用いて本格復元されました。
又、備中松山城は日本三大山城の一つと云われ、日本100名城にも選ばれています。
備中松山城を訪問する場合、山の麓の登山口から登る(約一時間)か、途中のふいご峠まで車で登って、ここから徒歩で登る(約20分)ことになります。
しかし、やはり登るなら麓からですし、城下の史跡を巡ってから登るのがお奨めです。
城下には、城主三村家親・元親・勝法師丸の墓と小堀遠州の枯山水庭園がある頼久寺や、水谷氏により城郭作りとされた松連寺、松山城の御根小屋跡、武家屋敷や歴史資料館などがありますので、こちらを巡ってから登山口より登ると良いでしょう。
登山道は綺麗に整備されているので、登るのに困ることはありません。
暫く登ると野猿に注意するようにとの看板があります。臥牛山周辺には野生の猿が生息しています。
(昔は、猿を観光用に集めて餌付けしていました。)
私は何度か登ったものの、登山中に猿に出会ったことはありませんが、鳴き声は聞こえました・・・。
登りはきついものの、途中にも史跡部分(大石内蔵助の腰掛け石など)がありますし、見晴らしも良いので楽しめます。途中のふいご峠で自動車組と合流となります。
ここの南側にある前山山頂部に下太鼓の丸跡があります。櫓は焼失したらしく建物類は残りませんが、石垣と数段の曲輪、井戸跡が残っています。
ふいご峠の駐車場に戻って左奥の登山道から道なりに登って行くと右手に中太鼓の丸の石垣が見えてきます。立派な石垣です。
太鼓の丸なので当時は太鼓が置かれて様々な伝令に使われていたものと思われます。
登山道に戻り、力を振り絞って登っていくと左手に石垣が。大手門跡から北側に展開される石垣群を見ると疲れは全く吹き飛びます。
本丸は五・六の平櫓や御門などが整備された為、以前に比べて格段に見栄えが良くなりました。
天守閣は小振りなものの着飾っておらず、清清しい感じがして非常に好感が持てます。
壁は中が空洞であるなど、実際の戦に使えるものではないようで、あくまで平和な江戸時代の居館的な意味合いが強いようですが、内部には全国的にも珍しい囲炉裏があるなど見所があります。
後は、本来の天守閣出入口の部分となる八の平櫓が復元されないかと期待しているのですが、現存する写真に櫓の一部しか写っていないため難しいようですね。市側としては、大手櫓門の復元を期待する声があるようですが、やはりこちらも資料等が見つかっていないために難しいようです。
天守閣の北側には二重櫓が鎮座しています。本丸廻りの復元に際して天守との間に門と土塀も復元されたため、天守閣と一体感が出てきました。
十の平櫓跡裏から北側へ向かうと、橋が掛けられており、これを渡ると相畑城戸跡、天神の丸、大松山城跡へと続きます。
ちなみに、平日は自家用車でふいご峠(駐車場あり)まで登れますが、休日は登れません。
休日の場合は、登山口の先にバス乗り場がありますので、ここの駐車場に自家用車を駐車してバスでふいご峠まで登ります。(往復500円)
<中太鼓の丸> 建物は残っていないが、しっかりとした石垣が残っている。 |
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<大手門周辺の石垣群> 石垣の組み合わせによる荘厳な造形美は、今更何も言う事は無い景観。 右手にある大岩は徐々に倒れてきている為、コンクリートによる傾斜防止策と継続的な監視が行われている。 |
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<大手櫓門跡> 本来であれば、大手櫓門の建物が鎮座しているべき場所。 大手櫓門が復元できれば、入口の景観が大きく様変わりするのは間違いない。 ただ、残念なことに写真や図面等の資料が残っていない。 |
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<四の平櫓跡> 城内には、大手櫓門から十の平櫓まで多くの平櫓が存在したが、廃城後、長年放置された中で朽ち果ててしまい、現存するものはひとつも無くなってしまった。復元されたのは本丸内の五・六の平櫓のみとなっている。 四の平櫓は二の丸と三の丸の間の御膳棚と呼ばれる壇の南西面に設けられており、五間×二間の大きさである。 |
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<三の平櫓東土塀> 手前の部分が重要文化財の現存土塀、奥の部分は復元土塀である。 石垣部分は小口乱積みで、土塀部分に狭間を設けている。 |
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<復元中の三の平櫓東土塀> 現存していた土塀と同じ構造を再現し、継ぎ足す形で土塀を本来の想定の長さまで復元した。 |
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<二の丸から望む建物群> 五と六の平櫓、土塀などが復元されてから、景観が段違いで良くなった。 皆、二の丸のこの位置で写真を撮る。 |
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<現存天守閣と復元本丸東御門> 本丸内はかつては天守と二重櫓のみが残っている状態で一抹の寂しさが感じられたが、櫓、石垣、土塀、御門などが復元され往時の城の雰囲気が感じられるようになってきた。 |
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<五の平櫓(復元)> 側面の下部は黒板。櫓の角の部分(石垣との間)に石落が設けられており、本丸に迫る敵兵に対して城内から石を投げ落としたり、矢で射たりすることが想定されている。 大きさは桁行三間×梁間二間。 復元された櫓の内部は管理員詰所となっており、一般の入城者は立入不可である。 |
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<六の平櫓(復元)> 入母屋造で本瓦葺の平櫓。外側に武者窓と狭間が設けられている。 大きさは桁行五間×梁間二間。 写真の右手隣には七の平櫓跡がある。 こちらの櫓の内部は歴史紹介テレビや資料などが置かれた公開展示室となっており、自由に立ち入ることが可能。 |
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<復元中の五の平櫓、土塀など> 本格木造復元を行っている。但し、櫓内部については、消防法等による制限を受けている。 |
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<復元中の六の平櫓など> 既に屋根瓦も載り、完成が近い。 |
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<天守閣一階の囲炉裏> 珍しい囲炉裏設備。 山上であるため、冬季は暖をとる必要があったのであろう。 |
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<天守閣二階の御社壇> 所謂神棚の大きい版。城を修築した水谷氏により、神々を勧請し安泰を祈願するために設けられたという。 |
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<八の平櫓跡> 本来、この石垣の上に八の平櫓があって、天守閣への入り口となっていた。 大正末期には天守閣、二重櫓、五・六の平櫓と共に風雨に晒され酷く朽ちながらも残存していたようだ。(明治末期の写真も残っている。) しかし、その後に八の平櫓は倒壊し、天守閣と二重櫓は修繕されたものの、残念ながら平櫓は修築されずに、全て解体されてしまった。 |
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<二重櫓(現存)> 天守閣の裏側(北側)にある、現存する二層の櫓で、桁行四間×梁間二間半。 岩肌の上に石垣を積んだ上に立つその姿は、まさに武骨な武士の姿そのもののようである。 |
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<現存二重櫓と復元御門と土塀> 天守閣と二重櫓の間に門と土塀が復元され、双方が繋がった形となった。 |
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<二重櫓内部(一階)> 内部は一階、二階共に埋蔵物や古写真の展示室となっている。 |
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<二重櫓内部(二階)> 窓からは周囲を見渡せる。 |
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<後曲輪と九の平櫓跡> 二重櫓の北側に位置する曲輪。 背後の石垣には城の北側を守る九の平櫓が設けられていた。 右手から降りると水の手門脇曲輪と十の平櫓跡となる。 |
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