河西(川西)氏累代の城です。室町後期には備中を席巻した三村氏に誼を結び、之秀(河西入道)は三村氏一門となっていました。
備中兵乱に際しては、鬼身城の出城として守りを固めましたが、小早川隆景の意を受けた中島城主中島元行の説得に応じて城兵の助命を条件に降伏。
天正三年正月十九日、児島へと流されました。(その後讃岐へ)
訪れたのは、真夏の暑い日。天気予報では熱射病の注意を呼びかけている日でした。
登山ルートは複数あり、森本氏の著書「岡山の山城を歩く」では厚生年金休暇センター(現在では、サントピア岡山総社)から登るルートを示されていますが、私は、少しでも短距離での到達を目指して秦廃寺横のところから登るルートを使うことにしました。
序盤は登山道は快適で、楽に到達できるのでは、と甘い考えが過ぎったのですが、暫く登ると深い雑草に埋もれて道が見えない状況に・・・。
引き返せばよかったかもしれませんが、意固地になって蜘蛛の巣が張る雑草群に突入。悪戦苦闘の末に厚生年金休暇センターからの道に合流しました。
結局、途中で道が判らなくなってあちこち斜面を登ったりして時間と体力を費やした為、素直にあちらの道を使っておけばよいのに、という結果でした。
(まあ、そもそも真夏に登るのが間違いなのですが・・・。)
尾根上の道を暫く進むと、三の壇を示す標識が目に入ったところでフラフラに。見上げると太陽が何もかも焼き尽くさんとしているような眩しさと暑さです。
温度計は32℃を指しており、暫く休息をと木陰に入ったものの、蚊などの虫が大量に飛び交っており、ここでの休憩は断念。
二の壇を通り過ぎて、一の壇(主郭)の休憩所へ。本来は、これから土塁や堀切、土橋などの遺構を見て廻るはずでしたが、気分が悪くなり、楽しむ間も無く、早々に下山することにしました。
帰りは、素直に厚生年金休暇センターへの道を使って下山。やはりこちらのコースが正解でした。
下山後に麓の道を歩いて秦廃寺の駐車場へ。何とも大失敗な訪城でした。
<荒平山城遠景> これは秋に通りがかった際のもの。 涼しい時期に行くべき。それだけ。 |
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<三の壇> 草が茂り、虫が飛び交う・・・。 |
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<二の壇から一の壇を望む> まさに草茫々・・・。 もはや遺構を確認できるレベルではない。 |
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<一の壇の城跡の碑> 「備中荒平城址」で?という感じ。 土塁や堀切を探しに行く余裕は全く無い。 |
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<一の壇と休憩所> この頃には、頭の中は下山のことだけ・・・。 休憩所で休む気持ちにもなれない。 |
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<休憩所の説明板> 城跡の説明・・・。読んでない・・・。 気持ちが悪い・・・。 |
管理人:久氏
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