平安時代末期に源氏軍と平家軍が水島(現在の玉島)で剣を交えた水島合戦の際に平家側の陣が張られたところと伝わる城跡です。
この水島合戦にて源氏軍は大敗して主だった武将を失うことになり、追い詰められていたはずの平家軍は息を吹き返して京に攻め上ることになります。
現在残る城跡は、この源平期の遺構ではなく、その後の室町時代から戦国時代のものであり、当時備中南部を抑えていた備中細川氏の影響下にあった時代のものと思われます。
近年、城跡の中央部を貫く形で水島ブリッジライン(昭和52年供用開始)が建設されてしまい、遺構は大きく破壊されてしまっています。
城跡としては無名ですが、源平時の水島合戦の古戦場としては、(地元では)少し知られていると思います。
玉島の市街地から県道47号線で下って、水玉ブリッジライン(旧水玉ハイウェイ)の橋脚が見えれば目的地周辺ということになります。
埋立地がある関係で、車を停める場所には困らない感じですが、くれぐれも周辺の方のご迷惑にならないようご注意ください。
(R4.追記)現在は、この埋立地に「玉島みなと公園」が造られており、こちらに駐車場やトイレがあります。
ブリッジラインの下に、北側と南側に同じように階段が設けられています。
北側の階段を登れば、水島合戦の碑がある曲輪の北側に。南側の階段を登れば、土塁や張り出しが残る曲輪の南側に出ることになります。
元々は一体の曲輪であったと思われ、昔の地誌の写真を見ても、平らな台のような感じに見えます。
現在では、道路が主郭中心を貫いている為、曲輪は中心部が失われ、南北に分断されてしまっています。
見所としては南側の方が多く、土塁などが残されています。北側の土塁は一部のみ残っていますが、高さが高く、まるで土壁のようです。
<森本松山城遠景> 埋立地から望む。かつてはこの辺りは一面海の中であり、山裾の船場に漁船が停泊していた。 城跡へはブリッジラインではなく、高架下の県道47号線で向かう。 橋脚の下から、南側及び北側の曲輪へ至る階段がそれぞれ設けられており、登れば直ぐに城跡。 |
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<主郭中心部を貫くブリッジライン> 見事に中心をぶち抜いている。悲しい程に。 |
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<南側の曲輪の西面土塁> 南側の曲輪面の西側から延びる土塁。 |
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<南側の曲輪の南面土塁> 西側の土塁から続く土塁。 |
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<南側の曲輪の張り出し部分から折れ部分の切岸を望む> 絶壁、と云うほどの高さはない。 ただ、この切岸は後年のものの可能性がある。 |
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<南側の曲輪の削平面> 夏場は勿論、草茫々となる。 |
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<北側の曲輪にある源平合戦碑> 立派な合戦碑と説明版はあるが、城跡に関する記載はない。 |
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<北側の曲輪の土塁> 北側には南側に比べると僅かにしか土塁が残っていない。 ただ、こちらの土塁の方が高さがある。 |
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