寿永二年に木曽義仲(源義仲)の命により、今井兼平が築城したとのこと。
現在は城之内という地名が残る丘陵地が城跡地と推測されています。
今井兼平は長野の人ですが、木曾義仲の四天王の一人で、平家討伐の遠征軍に参加して備中まで遠征してきました。
遠征軍が水島の戦いで平氏に敗れた後、倶利伽羅峠の戦いで捕虜になっていた妹尾兼康が反乱を起こしたため、福隆寺縄手の戦いで討ち取りました。
万寿城はこの遠征の際にこの地に築いた陣城でしょうか。
ただ、兼平はこの戦いの翌年には、近江において頼朝軍との戦いで義仲と共に敗死してしまいます。
国道429号線(旧国道2号線)と山陽本線が交差する位置にある低丘陵地周辺が鎌倉期の城館跡と云われる万寿城跡です。
線路を跨ぐ形で道路を敷設する際に城跡の丘陵地を利用したものと思われますが、その際に丘陵上は削平してしまったのでしょうか。
そもそも、それ以前に丘陵上は長年畑地等で利用されていたものと思われ、痕跡が残る余地は無いのかもしれません。
周辺を散策してみましたが、残念ながら道路の開設や宅地化で丘陵周辺に城の遺構と思われるものは全く見当たりません。
しばらく山陽本線の電車を眺めてから引き上げました。
(現在は、山陽本線の電車の色は黄色一色(岡山色)です。)
<山陽本線北側の丘陵> 写真ではよく判らないが、画面右側が高台になっている。 丘陵は周辺を含めて宅地になっており、丘陵上には道路(旧国道2号線)の敷設に伴い大きく改変されているため、城跡遺構と考えられるものは見当たらない。 周辺には「城の内」の地名が残っている。 |
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<山陽本線南側の丘陵> 写真の草木が繁っている部分。 丘陵南側にはJR山陽本線が隣接しており、その鉄軌道地南側には山土がなだらかな丘状に存在している。 ただ、こちらは道路或いは鉄道を敷設した際に発生した残土ではないかと考えられる。 |
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<山陽本線南側の丘陵> 更に近づいた画像。たしかに木々の合間に見える地肌は少し土質が異なっているようにも見える。 |
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